フィデル・カストロ死去直後のハバナを歩く。
2016年。オバマ大統領がキューバとの国交正常化を進め、世界が「変わり始めるキューバ」に注目していた頃、私はカメラを持ってハバナへ向かった。
撮りたいと思っていたのは、カラフルで雑多な建物、葉巻、ラム酒、ラテン音楽、そしてクラシックカー。けれど、到着直前にフィデル・カストロが死去し、キューバは喪に服していた。音楽と酒が止められ、街はいつもの観光地とは違う表情になっていた。
主な流れ:名古屋 → 中部国際空港 → 仁川 → カナダ → ハバナ → 旧市街 → 革命広場 → バラデロ → 葉巻工場 → 新市街 → マレコン通り → ブエナビスタ・ソシアル・クラブ → 帰国
旅の前に
歴史を知らずに撮ることへの怖さ
キューバへ行く前、私はできるだけ歴史背景を頭に入れようとしていた。撮影をする上で、その国の歴史や思想を知らずにカメラを向けることは、写真を浅くしてしまう気がしていたからだ。
キューバ革命、アメリカとの国交断絶、ソビエト崩壊後の苦難、社会主義の理想、そして古いものを大切に使い続ける文化。頭の中には、葉巻とラム酒とラテン音楽の国があった。けれど、実際に向かうことになったのは、フィデル・カストロの死を悼む、静かなキューバだった。
11月27日
出発準備と、不穏なニュース
朝のニュースでは、各国のトップニュースとしてフィデル・カストロ前議長の死去が流れていた。出発ぎりぎりになって、あるものをスーツケースに押し込んだ。
ツーリストカードはなんとか準備できたものの、手続き関係には最後まで悩まされた。名古屋へ向かい、ニコンプラザに行こうとしたが日曜で休み。ヨドバシカメラでNDフィルターと折り畳みキーボードを買い、キューバへの土産として消せるボールペンも用意した。
現地からの連絡で、12月初旬まで音楽と酒が政府によって禁じられ、喪に服す期間になると知った。なぜこのタイミングなのか。不安はあったが、同時に、キューバにとって非日常の一週間を撮れるのかもしれないという感覚もあった。
11月28日から29日
中部国際空港からハバナへ
朝、名古屋から中部国際空港へ。インチョン、カナダを経由する長い移動。飛行距離も待ち時間も多く、安い航空券らしい遠回りだった。
長い移動の末、ハバナに到着。荷物の受け取りはやたらと遅かった。空港の外へ出ると、私の名前を書いたプレートを持つ男性がすぐに見つかった。タクシーにはまったく期待していなかったが、現れたのは時代物のクラシックカーだった。
最初からこれか。感激してシャッターを押したが、街を走る車を見ていると、どうやらここではそれが特別ではないらしい。
11月30日
旧市街、革命広場、喪に服すハバナ
深夜まで撮影していたのに、朝6時過ぎには旧市街を歩き始めた。泊まっていたCASAは、地図で見ていた印象よりずっと旧市街の中心に近かった。朝の掃除をしている人たち、路地を歩く人、海岸沿いに向かう道。働くキューバ人を撮ることは、今回の大きなテーマの一つになりそうだった。
観光名所にも行ってみたが、革命博物館やヘミングウェイゆかりのホテルは、自分の興味の浅さもあって、思ったほど心が動かなかった。困ったことに、普通の観光にほとんど興味が湧かなかった。私が撮りたいのは、名所ではなく、街の中で普通に生きている人たちだった。




夜は革命広場へ向かった。追悼の儀式が行われ、何万人いるのだろうと思うほどの人が集まっていた。人々はフィデルの名を叫び、国際的な要人たちがスピーチをしていた。言葉はわからない。けれど、空気の重さと熱は伝わってきた。


12月1日
バラデロへ、非日常の中の休日
朝、カストロの棺を乗せた車が通るのではないかと期待して動いたが、路地を撮影しているうちに見逃してしまった。この日は、現地で出会った人たちとバラデロへ行く流れになった。
真っ青なビーチで泳ぎ、子どもの面倒を見るような形で一緒に遊んだ。一番楽しんでいたのは自分だったかもしれない。ハバナとはまるで違う、西欧式のリゾートの遊び。キューバの別の顔を見た気がした。

12月2日
学校、市場、葉巻工場
朝5時ごろから行動開始。明るくなり始めると撮影に出た。小学生がたくさん歩いているのでついていくと、学校があった。教育と医療が無償の国。けれど、先生の給料はとても安いと聞く。どうしてこのバランスが保てるのか。
市場にも入り、撮影した。人懐っこい人が多く、撮影は驚くほどスムーズだった。


その後、葉巻工場のチケットを買いに行った。工場内の撮影はやはり不可だった。それでも、手作業で葉巻を巻く工場風景は衝撃的だった。写真に撮れなかったからこそ、記憶として強く残った場面だった。


午後、新市街へ行き、墓地を見学した。キューバ日系人の慰霊堂の前まで行くと、急に胸が詰まった。こんな地球の裏側に縁があり、ここで生き、ここで亡くなった日本人がいた。その事実が、思った以上に重かった。

12月3日
旧市街を撮る、職人を撮る
朝からハバナ旧市街を撮影した。この国は、風景だけではない。色を意識しながら、人を撮るべき場所だと思った。
昼からは、現地に詳しい方に付き合ってもらい、面白い職人を撮影して回った。その後、なんとなく職人撮影のイメージがつかめたので、一人でも歩き回った。手仕事、店先、道具、壁の色、人の表情。旧市街は、名所ではなく生活の細部にこそ力があった。



夜、現地で知り合った男性に誘われ、一般の人の暮らしを見る機会があった。社会主義の理想、平等、助け合い。そうした言葉だけでは説明できない現実も、確かにあった。


12月4日
喪の最後の日、絵を買う
朝から咳が出て、少し風邪の不安があった。それでも、どうしても前日に見た絵を手に入れたいと思い、旧市街へ向かった。
この日も、挨拶をしながら笑顔を撮った。スペイン語ができたらどれほどいいだろうと思う。フィデル・カストロの喪に服す時間は、結果的に私の撮影にも影響したと思う。酒と音楽の華やかさに引っ張られず、街と人に向き合えた。

昨日見つけた絵を買いに行った。売っていた男性はなかなか値を下げない。けれど、熱を持って語る姿を見ているうちに、その強さごと買ってもいいと思えた。旅先で物を買うという行為は、値段だけでは決まらない。

夜、現地で知り合った男性との食事で、こちらの感覚ではかなり高い支払いをすることになった。旅では、人に近づくことで得られるものもあれば、近づきすぎて距離を誤ることもある。この夜は、その境目をはっきり感じた。

12月5日
音楽が戻る日
滞在も残り二日になった。朝は中華街方面からマレコン通りを目指した。防波堤で釣りをする人がいて、海は決してきれいではない。光の加減によっては絵になるが、自分が欲しい写真はここにはないように感じた。

ハバナクラブ博物館へ行くと、英語ガイドの説明がかなり面白かった。帰り道、街のいたるところから音楽が聞こえてきた。喪が明け、キューバ本来の音が戻ってきたのだろう。1ブロックの中にいくつもの音が鳴り、正直うるさいほどだった。でも、これが本当の姿なのかもしれない。

夕方、音楽教室へ連れて行ってもらった。子どもたちへの指導は驚くほど熱心で、無償教育という言葉の裏にある、現場の熱を感じた。

12月6日
最後の日、迷い込んだ夕焼け
最終日。朝、学校の撮影に出かけ、少しだけ様子を撮らせてもらった。その後、葉巻を買いに行くが、高価でなかなか手が出ない。土産用にハバナクラブで一本ずつケースに入ったコイーバを購入した。
帰ろうとしたのに、なぜか元来た道がわからなくなった。かなり西に寄ってしまっていたらしい。けれど、その迷い込み方が不思議だった。最後のピースがはまるように、目の前に撮りたい夕焼けの景色が現れた。


夜はどうしても食べたかった家庭料理を頼んでもらった。2CUCのチキン料理は、期待をはるかに上回るおいしさだった。カメラを持たず、バルコニーで庶民の葉巻を吸いながら、最後のハバナを感じた。

その後、ブエナビスタ・ソシアル・クラブの演奏へ向かった。観光客向けの雰囲気はあったが、それでも30CUC分の価値はあったと思う。喪の静けさとはまったく違うキューバが、最後の夜に顔を出した。

12月7日
ハバナを離れる
6日間お世話になった部屋を掃除した。空港へ向かうクラシックカーのタクシーが到着する。初日に空港で出迎えてくれた、あの運転手だった。
空港でこの車を見たときの感動を思い出す。けれど、1週間もクラシックカーに囲まれていると、もう珍しさを感じなくなっている。人間の慣れは早い。旧市街にとどまり、毎日ひたすら歩き回ったことは正解だったのだと思う。

帰国途中
トロント空港で
トロント空港で乗り継ぎを待ちながら、この旅を振り返った。当初は、以前のように長く休みが取れるわけでもないので、バックパッカー卒業のつもりだった。スーツケースを買い、『地球の歩き方』を片手に、短時間で観光地を回る旅になると思っていた。
でも、一度染みついた癖は簡単には抜けない。初日に歩いてみて、今回の目的はハバナ旧市街ですべて完結すると確信した。移動時間も、荷物を移動させる時間も惜しくなり、定宿を撮影基地にして、毎日ひたすら歩き回った。

12月9日
日本へ戻って
日本に戻ると、どこを見ても清潔だった。納豆ご飯を食べ、駅へ向かい、日常に戻っていく。
世界の均一化は、インターネットやスマートフォンの一般化で急激に進んでいる。観光化された美しい文化しか生き残れない時代。生活感のある文化は、静かに消えていく。
風前の灯火となった生活感あふれる文化を撮影すること。それが、私の使命なのだと思った。
