プロローグ|2006.11.30
故郷に帰れない老女
前年のネパール、アンナプルナサーキットのトレッキングで撮った一枚の写真が、私をここへ引き寄せた。
ヒマラヤを背に、チベットの旗を握りしめた老女。文化大革命で寺院が破壊され、僧侶が投獄されていく中、ネパールへと逃れたチベット人は数知れない。それでも彼女の眼差しに悲しみはなく、深い慈愛と静けさがあった。
チベットとはいったいどんな場所なのか。そこで何が起き、何が残っているのか。自分の目で確かめずにはいられなかった。
2006.12.8(8日目)
上海 → チベット
朝9時、上海。
チベット入域許可証の手配を頼んでいた羊さん──大阪からのフェリーで偶然隣り合った中国人の友人──に電話すると、すでに許可が下りているという。急いで荷物をまとめ、両替を済ませ、上海駅へ向かった。
チケットを手渡しながらお礼を差し出すと、彼女は静かに首を振った。
「金持ちの日本人の友人がいて、よくしてもらっています。あなたのような若い人からはお礼は受け取れません。」
その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
16時11分、青蔵鉄道がラサへ向けて動き出す。軟臥(ソフトベッド4人個室)に乗り込み、はるか5000メートルの高原へ向けた52時間の旅が始まった。
2006.12.9(9日目)
二泊三日の寝台列車
同室だった中国人が途中で下車し、清潔な個室を独り占めにした。ベッドには小さな液晶モニターがついており、青蔵鉄道の建設ドキュメンタリーやチベットを舞台にした映画が流れていた。
上海での食事が原因か、少し胃の具合が怪しかったが、設備の整った軟臥を選んで正解だった。ゴルムドあたりから、チベタンが次々と乗り込んでくる。車内の空気が、少しずつ変わり始めた。
2006.12.10(10日目)
ラサに到着
寝台列車に乗ったのは初めてだったが、飛行機では到底味わえない醍醐味を知った。出発地と目的地の位置関係を、地図ではなく体で感じながら移動できること。それだけで十分だった。
腕時計の高度計が、12時20分の時点で5070mを指している。頭痛が波のように押し寄せてきたが、車内の酸素供給システムでしのぐ。前年のヒマラヤトレッキングで経験した激しい高山病の記憶がよぎるが、今は食事も喉を通る。
高度計が4600mを示したころ、目を疑う光景が目に飛び込んできた。並行して走る幹線道路の上を、5つの人影がドミノ倒しのように──パタ、パタ、パタ──と倒れては起き上がり、また倒れていく。五体投地。初めて目にする光景だった。
夜8時、上海から52時間でラサに到着。軽い頭痛を抱えながら、妙にハイテンションなタクシー運転手の車に乗り、有名な「ヤクホテル」へ。6人用ドミトリーはオフシーズンで一晩20元(約300円)。共同のホットシャワーも問題なく出る。
2006.12.11(11日目)
チベット語の特訓
初日は高山病を警戒して、午前中はホテルでおとなしくしていた。11時ごろから体が動くことを確認し、まず最寄りのジョカン寺へ向かう。
当たり前のことだが、街中にチベタンがあふれていた。テレビで見たように、数珠とマニ車を持ち、同じ方向へ歩いている。オフシーズンで観光客はまばら。チベタンたちがカメラをどう思うのかがわからず、最初は撮影を控えた。できる限り指差し会話帳でコミュニケーションをとってから、気持ちよく撮らせてもらえるよう心がけた。
日光浴をしながらマニ車を回すお年寄りたちに声をかけると、逆に何人かに囲まれてしまった。基本的な挨拶を教えてもらいながら、発音を何度も丁寧に直される。なかなか充実したチベット語講座だ。チベタンたちは写真撮影にさほど嫌悪感を持っていないことも、だんだんわかってきた。
2006.12.13(13日目)
世界遺産と対面
朝9時から行動開始。まずはポタラ宮を一目見ようと、町の西側へ歩いた。しばらくは中国系のショッピング街が続き、複雑な気分になる。
角を曲がった瞬間、突如としてポタラ宮が現れた。
不覚にも、涙腺が緩んだ。
同時に、5000メートル級の峠を越えて五体投地でここを目指す人たちの気持ちが、少しだけ理解できた気がした。長い滞在になる。内部に入るのは時期尚早と考え、巡礼者に交じってコルラ(聖なるものを左回りに巡る行為)に加わった。
2006.12.14(14日目)
祈りの夜
ラサ北部のゲルク派の僧院「セラ寺」へ。問答修行で知られる場所だ。あいにく近々控えた祭りの準備で僧侶たちは忙しく、問答の風景は見られなかった。
夜は、ジョカン寺で大きな祭りがあると聞いて足を運んだ。20時を過ぎたころから町全体に焚かれる香(サン)の煙が立ち込め、幻想的な光景が広がる。
チベタンと一緒に手を合わせ、目を閉じた。喧騒のように聞こえていた声の一つひとつが、祈りの歌だったと気づく。意識の奥底に吸い込まれていくような感覚が静かに押し寄せてきて、しばらくその不思議な時間の中に身を委ねた。
2006.12.15(15日目)
ツォンカパ命日
朝6時半に起き、ラサから45キロ離れたガンデン寺へ向かう。ゲルク派の祖師ツォンカパの命日に、何かしら儀式があるはずという直感からだった。
観光客がほぼいないバスで2時間。到着すると、民族衣装のチベタンの数に圧倒される。絶壁に張りつくように建てられた伽藍群──その存在感に息をのんだ。高度計はすでに4800mを指す。
日の出前に丘の頂に立った。すでに多くの人が山頂で香をくすぶらせ、祈りの言葉が書かれた紙吹雪を空へ舞わせている。太陽が昇り始め、その姿が逆光の中に浮かび上がった瞬間、広大な景色と相まって言葉を失った。
午後からは大タンカ開帳。低音のホルンの音と僧侶の念仏合唱のあと、巨大な刺繍の幕がゆっくりと垂らされた。チベタンたちに続き、1時間ほどのコルラへ。
2006.12.16(16日目)
休息
昨日はガンデン寺から戻った後、ジョカン寺の祭りも見た。宿で知り合った日本人とニュージーランド人女性と3人で歩き回る。ニュージーランド人はチベタンの好奇心の的で、記念撮影をせがまれていた。彼女の英語はとても聞き取りやすく、こちらが詰まると根気よく言い換えてくれる。理想的な英語の先生だ。
焚かれすぎる香と、むせ返るような照明用バターの匂いのせいか、体調を少し崩してしまった。今日は休息日。
2006.12.17(17日目)
最悪の散歩
喉が痛く、完全に風邪気味。それでも、ポタラ宮のベストショットを撮ろうと散歩に出てしまった。ポストカードによく使われる「左上からの構図」が撮れる場所を探して、丘を目指す。しかし軍の施設らしく一般人は入れない。結局、重い体で半日かけて丘を一周しただけに終わった。
2006.12.18(18日目)
風邪
昨日の無理が祟った。起きると熱があり、食事以外は外出できない。部屋はイタリア人、韓国人、ニュージーランド人、中国人、そして日本人(私)という国際的な顔ぶれ。皆いい人で、お湯を運んでくれたり、薬を差し入れてくれたりした。旅先で助けてもらえるありがたさを、改めて感じた一日。
2006.12.19(19日目)
デプン寺
熱が引いたので、寺院へ。チベット最大規模といわれるデプン寺。1416年の建立で、ポタラ宮が建てられるまでダライ・ラマが住んでいた場所だという。
残念ながら、ほかの寺院で感じるようなパワーは感じなかった。文化大革命で徹底的に破壊され再建されたせいだろう。敷地は広大で、すべて見て回るのに4時間かかったが、僧侶や巡礼者との短いやりとりが楽しかった。
2006.12.20(20日目)
旅は次の段階へ
ラサを歩いていると、受け皿を前に朝から晩まで祈り続ける人や、「クチクチ(お金をください)」と袖を引く子供たちがいる。チベットではお金を渡すことが「得を積む行為」とされ、誰も非難しない。物乞いを追い払う店員など、ここにはいない。しかし、中国の近代化が進む中、その数が増えているのも事実だ。
ラサ近辺の主だった場所は一通り巡った。次の目的地、エベレストベースキャンプへの計画を本格的に立て始めた。入山許可が必要で、車もチャーターしなければならない。同じ目的を持つ旅人を探すことにした。
2006.12.21(21日目)
気迫の祈り
ドミトリーをひとりで使う。洗濯を済ませ、ラサ市内のアウトドアショップを回る。ヒマラヤのお膝元だけあって、有名ブランドのロゴが目に入るが、ほぼ間違いなく偽物だ。作りのしっかりしたものを見つけるのに苦労した。
夕方は日課となりつつあるジョカン寺でのコルラと撮影。巡礼者たちの熱心さには、心から感心する。朝から晩まで祈りの列は続く。自分のためだけでなく、生きとし生けるものすべての幸福を願って──多分チベタンがこうして祈り続けているから、かろうじて地球は滅びずに済んでいるのだろう、と本気で考えてしまう。
最近、毎日ジョカン寺で目に止まる人物がいる。無数の巡礼者の流れをものともせず、気迫の五体投地でジョカンを回り続けている人。今日は感謝をこめてお布施を渡した。
2006.12.22(22日目)
ノルブリンカ
ラサ近辺の寺院も残りわずかになってきた。今日はノルブリンカへ。ダライ・ラマ14世が実際に住んでいたという場所だが、かつての面影は薄く、正直つまらなかった。ラマが亡命した、その時間で止まったままだという時計があった。60元払ってまで訪れる場所ではないかもしれない。
代わりに近くの西蔵博物館へ。日本語音声ガイドはなかったが、展示品は充実していた。
2006.12.23(23日目)
エベレストに向けて
トラベルエージェントに出向き、希望のルートを相談した。出来上がったプランをホテルの掲示板に張り出すと、1時間も経たないうちにスウェーデン人2人が部屋を訪ねてきた。夜までにもう1人アメリカ人がコンタクトしてきて、望んでいた4人が揃う。ランクルをチャーターして1人1000元ほど。弱い英語頭をフル回転させながら計画をまとめた。これぞバックパッカーの醍醐味だ。
2006.12.24(24日目)
クリスマス・イブ
「金剛杵」を探しに行く。煩悩をうち砕き、本来の仏性を引き出すための密教法具だ。露店では見つからず、高級法具店や骨董品屋を巡り、やっと目に叶うものを見つけた。値段交渉を重ねた末、150元で手に入れる。真鍮・銅・ターコイズ石による、細部まで手の込んだ細工が美しい。
次にチベタンなら誰もが持つ数珠を探す。ヤクの骨から削り出した、飾り気のないシンプルなものを20元で購入。今回の旅で初めて買った、本当の意味での土産だ。
夜は、エベレストへ同行するスウェーデン人たちに誘われ、8人でビュッフェのクリスマス夕食。話の半分以上はわからなかったが、店の計らいでプレゼントが配られ、突然ケーキが登場した。明後日からの旅が無事に進みますように。
2006.12.25(25日目)
ドタキャン
明日からのエベレスト旅行に備え、高山病の薬とバランス栄養食を買い込んだ。18時、メンバーで集まって旅費を支払いに出かける──はずが、1人がパーミットの関係で参加できないと言い出した。3人でシェアすることになれば増額だ。怒りたいところだが、言葉の壁がある。スウェーデン人が増員を探してくると言ってくれた。
2006.12.26(26日目)
万事塞翁が馬
落ち込んでネットカフェに座っていると、近くで日本語サイトを開いている女性が目に入った。ダメもとでエベレストへの同行を誘うと、快諾してくれた。翌27日出発で、スウェーデン人2人と日本人2人の4人でエベレストへ。言葉の壁を超えて感動を共有できる仲間が加わった。
2006.12.27(27日目)
エベレストへ…
朝9時半、まだ薄暗い中、16日間泊まったヤクホテルに別れを告げる。
迎えに来たTOYOTAランクルは相当な年季もの。ドライバーは英語がほぼ通じない。まず目指したのはヤムドク湖。4000メートル超の場所に広がる、ターコイズ色の巨大な湖だ。あまりの青さと広さに言葉を失う。アルビノのヤクにまたがり記念撮影──いつかどこかで見た写真の景色が、今、目の前にある。
今日の宿泊地はギャンツェ。チベット版のモン・サン=ミシェルとでも呼ぶべき要塞都市だ。
2006.12.28(28日目)
イメージ通りのチベット
ギャンツェのバンコル・チューデ寺へ。密教経典の成立過程を立体的に見て回れる巨大なチョルテン(仏塔)が有名だ。
正午過ぎ、シガツェに到着。旧市街を歩くと、ヤギやヤクの肉が無造作に並び、独特の空気が漂う。入場料をケチろうと敷地外を一周してみたが、すべて塀に囲まれていた。その道中で出会ったチベタンのおばあさんたちとのやりとりが、予想外に楽しかった。
結局入場料を払ってタシルンポ寺院へ入ると──自分がチベットの僧院に抱いていたイメージそのままの光景が広がっていた。入場料を惜しんだ自分が恥ずかしくなった。僧侶がホルンを練習しているところへおじゃまして、しばらく聞き入る。音楽というより振動に近い、重低音が心の奥底まで届く。
本堂では百人ほどの僧侶が読経していた。観光客が入る場所ではなかったようで早々に追い出されたが、できる限り粘ってその空気を記憶に焼きつけた。
2006.12.29(29日目)
荒んだ町
昨夜は寒気がしたが、もらったリンゴと薬の力で朝には回復していた。今日の目的地はニュー・ティンリ。途中の見どころは少なく、印象に残っているのはラツェという町での昼食ぐらいだ。衛生環境は最悪で、物乞いの子供たちがあふれていた。エベレスト登山の中継地として発展してもいいはずなのに、と複雑な気持ちになる。
ニュー・ティンリでは各国からエベレストを目指す旅人たちとゲームをしながら夜を過ごす。スウェーデン人女性とチェスをして、もちろん負けた。
2006.12.30(30日目)
エベレストBC
4人とも目覚ましより遅く起きた。昨晩は電気が止まって極寒の中、犬の遠吠えと車の修理音に何度も起こされたせいだ。
ゲートでパスポートチェックを済ませ、エベレスト国家保護地区へ。パンラ峠で遠くに見えるエベレストを背景に記念撮影。しかし骨董ランクルはすでに4回エンジンストールを繰り返しており、もはや誰も笑って受け流していた。
さらに進むと前輪から異様な振動。ショックアブソーバーがぶら下がっている。ドライバーのロブはそれを取り外し、そのまま走り出した。ありえない振動に体が悲鳴を上げる。
世界最高所の寺院、ロンボク寺に到着したのは昼ごろ。チョモランマが眼前に聳える。頂上まで歩いてもすぐ行けそうな錯覚に陥る。
点検してみると、前輪シャフトが外れ、4WDのはずのランクルがFR駆動になっていた。ベースキャンプまでの氷上トラバースは徒歩に変更。トラベルエージェントが渋っていたトレッキングが、思わぬ形で実現した。4人で少し得した気分になる。
5000メートルを超える急斜面を、足が思うように動かない。2時間弱でベースキャンプに到着。せり出した崖の向こうに、チョモランマが姿を現した。他の3人は高山病でぐったりしている中、ひとり撮影に集中した。
地面にアンモナイトの化石を見つけた。多分、私が来るのを待っていたのだと思い、静かにカバンにしまった。
[→ チベット日記 Ⅱへ](tibet2_校正版.md)
2006.12.31(31日目)
エベレストから帰還
朝8時半、ニュー・ティンリからラサへ向けて出発。ロブが「修理したから大丈夫」と言うが、落ちそうな部品を自転車のチューブで固定しているだけに見える。のろのろ安全運転でラサには18時過ぎに到着。ヤクホテルにチェックイン。5日分の汚れをシャワーで流した。
そう、今日は大晦日だ。
ラサを発つ前からいた日本人のコウちゃんと仲間を加え、4人でスノーランドレストランへ。今年最後の御馳走を食べたあと、お酒と火起こし道具を持ち寄ってホテルの屋上で年越しパーティー。ヒッピーな年越しだ。
チベット暦とは無関係のはずなのに、深夜0時になると四方八方で打ち上げ花火が上がった。午前3時半、初詣に出かけ、ジョカン寺をコルラ+五体投地。他のメンバーは力尽き、ひとりポタラ宮も回ってきた。今年はきっといい年になる予感がした。
2007.1.1(32日目)
哲学坊主
年越しパーティーの疲れで、目が覚めたのは午後1時半。綾さんとセラ寺へ向かう。今回は正規料金を払って入場。異様な声につられて広場に出ると、百人以上の僧侶が派手なパフォーマンスとともに何やら口論をしていた。「問答修行」だ。議論のテーマは「生きるとは何ぞや」といったことらしい。ディベート好きのアメリカ人に人気の寺だというのも、うなずける。
2007.1.2(33日目)
天に召される民 Ⅰ
チベットを知る上での大きな課題に向き合う日が来た。
早朝8時に宿をチェックアウトし、綾さんと向かったのは「ディクンティ・ゴンパ」。カギュ派の総本山で、280人の僧侶が修行する場だ。ここを目指したのは、霊験あらたかなこの地に多くの遺体が運び込まれ、毎日のように鳥葬が行われているからだ。以前は鳥葬ツアーが組まれるほどだったが、動画のネット配信が問題になり、現在は見学禁止となっている。しかし旅人同士の情報交換の中で、見ることが不可能ではないと知り、それだけの価値があると確信した。
ラサからバスで3時間。ディクンティ・ゴンパは崖にへばりつくような姿で私たちの目の前に現れた。上空をカラスやハゲタカが旋回している。今日は宿坊に泊まり、翌朝の鳥葬台の場所と逃げ道を確認しておいた。
2007.1.3(34日目)
天に召される民 Ⅱ
正直なところ、昨晩はいろいろなことが頭をめぐってうまく眠れなかった。祖父の葬式のこと。以前、懸命に心肺蘇生をしたにもかかわらず亡くなった人のこと。人間の生死について深夜1時から5時頃まで考え続けた。
チベットでは、魂はすでに転生しており、体はその抜け殻にすぎない。最後の得を積むため、他の命の糧となる。その考え方を、自分なりに噛み砕きながら7時に起きた。
8時から鳥葬場へ。9時を回ったころ人が集まりだし、準備が始まった。50メートルほど離れた場所から静かに見守る。やがて100羽以上のハゲタカが遺体を囲み、その姿はほとんど見えなくなった。
変わった葬儀が失われていく中で、とても貴重な体験ができた。
2007.1.4(35日目)
旅の友
長い間、濃い旅を共にした仲間との別れの日。3人が翌朝6時半のバスでネパール・カトマンドゥへ旅立つ。旅をしていると、似た目標を持った者同士が自然と出会い、自分がイメージしていたものをはるかに超える「旅」になる。
特に綾さんには、エベレストツアーへ誘ったときからずっとお世話になった。これまでの旅では極力日本人を避けてきたが、今回はドミトリーに泊まり情報を共有するスタンスにしてみた。一長一短、うまく使い分けながら旅をしたいと思う。
2007.1.5(36日目)
休息
昨日の別れのパーティーは朝まで続き、そのままネパールへ旅立つ3人をバスまで見送った。ゲームの罰ゲームを大量に食わされてふらふらだ。このところ休みなく内容の濃い旅が続いていたこともあり、3日間ほどおとなしくしようと思う。まだまだ先は長い。
2007.1.6(37日目)
物欲
あと4日間でチベットに1ヶ月滞在したことになる。ラサ近辺は自分なりに消化しつつある。多くの日本人バックパッカーが急ぎ足でネパールへ抜けていく中、いろんな意味で健闘したほうだと思う。
今日は買い物の日。東南アジアや中国では、薬品などで精巧に作られた「アンティークに似せた工業製品」があふれている。チベットの土産物も、巡礼者が実際に身につけている装飾品と比べると、完成度や精密さに欠けるものが多い。今日手に入れたのは、ターコイズで彩られた密教法具のケース。以前、綾さんに値段交渉を手伝ってもらい取り置きしてもらっていたものだ。1ヶ月養った目が、たぶん本物を見つけ出したと思う。
2007.1.7(38日目)
これからのこと
今後の旅の計画が、旅人たちとの情報交換の中でだんだん固まってきた。そろそろポタラ宮を訪れ、チベット自治区を出る時期だ。石窟群で近年注目を集める敦煌を経由してウイグル自治区へ向かう。多くのバックパッカーがネパールへ抜けるなか、羨ましくはあるが、90日間の中国ビザをフルに使って悔いなく中国を旅したい。
現時点の構想は、ウイグル主要都市→成都→昆明→タイ→ラオス→ミャンマー→中国黄山→上海→日本。もちろんこれはただの夢。何に心惹かれるかわからないし、財布とも相談しながら進めていこうと思う。
2007.1.8(39日目)
考え事
あと2日でチベット滞在が1ヶ月を迎える。新たな旅人がドミトリーに入ってきては高山病で苦しんでいる。それを見て、改めてこの土地の厳しさを実感する。
長く同じ場所にいると、いろいろなことの辻褄が自分の中でかみ合ってくる。多くの物乞い、はたまた優雅すぎる生活、無駄としか見えなかった行動。すべてに裏表があって、うまい具合にバランスが取れている──そういうことに気がついてきた。旅人はこれ以上知る必要がない、とすら思う。
今日は日課のジョカン寺周りと、3度目のセラ寺めぐりを行った。
2007.1.9(40日目)
ポタラ宮
朝10時から拝観。X線による荷物検査、ボディーチェック、パスポート提出。前置きが丁寧なだけに、余計に期待が高まる。
長い階段を上がると、まず入るのがチベットの政治部門を担っていた白宮。さすがはチベットの象徴的な存在だけある。仏像、壁画、調度品──文化大革命による破壊とは無縁のオリジナルで、独特のオーラが漂っている。繊細さと宝石の使い方が、ほかと全然違う。
特に気に入ったのはダライ・ラマの瞑想室だ。光の入り具合、程よい狭さ、仏像とタルチョが静かに囲む空間。瞑想室だと知る前から、自然と目を閉じて物思いにふけっていた。(後に日本人ツアーにこっそり混ざって2周目をしたときに、それが瞑想室だと知った。)
次に宗教部門を担っていた赤宮へ。立体曼荼羅や仏像が圧倒的なスケールで展開している。歴代のダライ・ラマが安置された黄金のストゥーパを前に、ガイドブックを頼りに故人に思いを馳せた。
入場から退出まで3時間、外国人観光客らしき人をひとりも見なかった。その代わりチベタンの巡礼者がたくさんいて、彼らの念仏をBGMに、理想的な精神状態で見学できた。
2007.1.10(41日目)
よからぬニュース
ウイグルへ向かうため、朝からチケット手配に苦戦する。噂では聞いていたが、ラサ発ゴルムド行きのチケットを日本人には売ってくれないのだ。なぜ売らないのかと聞いても「とにかく売れない」の一点張り。腹を立てても言葉が通じず時間の無駄なので、鉄道駅へ行き硬臥チケット360元を買う。出発は12日になった。
その夜、ニュースが飛び込んできた。これからまさに向かうウイグル自治区で、緊張した状況が続いているという。うぅ〜む、これから行くところなのに……。
2007.1.11(42日目)
ジョカンに始まり、ジョカンに終わる
ラサ初日に行ったのがジョカン寺だった。あの日は、全く異なる世界観の人種がいることを痛感した。しかし1ヶ月という時間は恐ろしいもので、その感覚が完全に麻痺していた。マニ車を回す人影がない場所に慣れるのに、また時間が必要だろう。
ラサ最終日にとっておいたのが、ジョカン寺本宮への拝観だ。毎日その周りをコルラしていたが、実はまだ中に入ったことがなかった。他のどの寺よりも神聖とされるこの場所こそ、遠くの村から巡礼にやって来た人、何年も五体投地を続けてきた人が最終的に目指す場所。あまり軽い気持ちで入るのはチベタンに申し訳ない──そんなちょっとした配慮からだった。
早朝、500人ほどいるチベタン巡礼者の列に100番目あたりで並ぶ。僧から手に水をもらい、清めの動作をして入場。石畳はツルツルに磨り減り、太い柱は人の手が触れる高さだけが異様にえぐれている。何千、何万の巡礼者がここを通ったのか。その執念にやられて、自分の幸福だけを祈り出しそうになる気持ちをこらえ、チベタン同様、生きとし生けるものすべての幸福を祈りながら巡礼した。
本尊ジョウォ神の膝下に、僧に押し込んでもらう。最後に、心の清汚がわかると言われる岩に耳を当てると──清いというサインが聞こえた気がした。その瞬間、すべてが軽くなるような感覚が訪れ、チベットに1ヶ月いられたことに、心から感謝した。
2007.1.12(43日目)
さようなら、ラサ
ラサとは今日でお別れ。ヤクホテルには20日以上住み込んでいたことになり、目をつむっていても自分の部屋のように動き回れるほどだ。去りがたい。
荷物をまとめ、9時の列車でゴルムドへ。寒さで凍りついた湖、ヤクを追い立てる民族衣装の男──ラサに相応しい風景が、列車の窓を映画のワンシーンのように流れていった。
ラサでのベストショット。あの光芒を求めて、ジョカン寺の前に何度通ったことか。
[→ チベット日記 Ⅲへ](tibet3_校正版.md)
2007.2.4(65日目)
成都 → マルカム
成都、午前6時。不要な荷物を預け、10日間お世話になったSim's Cozyゲストハウスを出発する。バスターミナルで乗り込んだバスの中は、すでにチベタン色に染まっていた。満席の車内で、自分の周りは僧侶ばかり。時折、重低音の念仏が静かに響いてくる。チベット再来が祝福されているようで、なんとなくうれしかった。
今日の宿泊地はマルカム。目指す場所まで直行とはいえバスで2日かかるため、他の客と一緒に宿へ押し込まれた。
2007.2.5(66日目)
マルカム → セルタ → ラルンガル・ゴンパ
朝5時半、運転手のノックで全員が起き上がる。正午を過ぎたころ、セルタという町に到着。すぐにラルンガル直行の乗り合いバンに乗り換えた。
ラルンガルへの入り口にはポリスステーションと車止めのバーがあり、外国人観光客の立ち入りが制限されていた。運転手は理解のある人で、座席の下に潜るよう指示してくれた。おかげで無事に中へ入ることができた。
目の前に広がる、巨大なラルンガル僧坊群。ひときわ目立つ仏塔に登り全体を見渡していると、腰かけていた若い僧と目が合った。なぜだかお互いに微笑みあったあと、横に座るよう手招きされる。彼の名前はガースナゴン。僧侶になるためにここラルンガルで学ぶ、20歳の見習い僧だった。
外国人がひとりで訪れたことに驚いている様子で、「俺の家に来たら宿と飯の心配はない」と熱心に誘ってくれた。願ってもない申し出に即決する。家は5メートル四方ほどの石積みの僧坊で、必要最低限のものしかない。仏壇には、ダライ・ラマ14世の写真が静かに飾られていた。
しばらくすると、彼の先生、友人、僧侶たちが集まってきて指差し会話帳の威力が炸裂。チベタン料理を食べながら、お互いの文化の違いに笑ったり議論したりする、楽しい夜になった。
2007.2.6(67日目)
チベタン衣装で再入場
8時に起きて深呼吸したら、鼻の中が凍った。ガースナゴン曰く「寒いから皆10時から起きる、もう少し寝ていなさい」。その言葉に甘え、10時に再び起きてチベタン食の真髄「ツァンパ」を食べる。
今日はガースナゴンの勧めで、一度ラルンガルを出て変装用のチベタン衣装を購入することにした。ダウンジャケット姿ではコソコソしなければならないからだ。異様に長い袖の「スーリー」と呼ばれるチベタンコートを購入。これだけでかなり自信が湧いてきて、帰りの乗り合いバンでは隠れることもなく、堂々とラルンガルの門をくぐった。
2007.2.7(68日目)
天に召される民 Ⅲ
※この日の体験は、親友となった僧侶の計らいで遺族と共に鳥葬に立ち会わせてもらい、取り仕切っている方から撮影許可をいただいたものです。中国語では「天葬」、英語では "Sky Burial" と呼ばれます。2006年11月に撮影・報道を禁じる「鳥葬管理暫行規定」がチベット自治区政府により公布されており、合法的に見ることはできない儀式です。
遺体にレンズを向けることへの抵抗があり、撮影できるとは思っていなかった。しかし僧侶にはっきりと言われた。「チベット文化の記録として持ち帰ってほしい。」この規定がチベタン自身の望みではないと、彼は伝えたかったのだろう。
正午を過ぎたころ、丘の草原に100人ほどの尼さんたちが集まりだした。これから何が起こるか知らなければ、ピクニックのように楽しげに見えることだろう。少し早く着きすぎたようで、ガースナゴンの知り合いのお爺さんと3人で日向ぼっこをしながら待つ。
午後3時になると、どこからともなく巨大な鳥たちが周囲の丘に集まり群れ始めた。そしてついに、遺体がライトバンとバイクで運ばれてくる。場の空気が張り詰め、先ほどまで楽しげに話していた尼さんたちが念仏の大合唱を始めた。
運ばれてきた遺体は計7体。顔をターバン状の布で覆い、大きな包丁を手にした鳥葬師ひとりによって、これからの儀式すべてが執り行われる。まず遺体を袋から取り出して硬直をといたあと、全体にわたって細かく切り込みを入れていく。硬直の激しいものは手足が切断された。次に脊髄に沿って深く切り込みが入れられ、太もも、ふくらはぎ、足の裏へと筋が入れられ、皮と肉がはがされていく。おもむろに髪を持ち上げ、額から包丁を入れると、滑らかな頭蓋が現れた。
解体する男の目に感情はひとつも見えない。見守る遺族の顔にも──同じだった。年齢の多い者から順に淡々と解体が進み、乳児までもが同じように扱われた。鳥たちは周囲に漂う匂いに耐えられないのか、見ている私たちの頭上ギリギリを奇声を上げながら飛び交っている。
興味深いことが続く。7体それぞれの遺体から、遺族が求める体の一部──脇の下や股から取り出される謎の丸い物体、頭蓋の天辺など──が取り出され、差し出されたお金と交換された。相場は50元ほど。淡々と進む儀式の中で、唯一儀式めいた瞬間だった。
計7体の解体が終わり一列に並べられたとき、尼さんたちの念仏の声が一段と大きくなり──「アイヤー」という鳥葬師の一声で、鳥たちが我先にと遺体に群がった。翼を広げると2メートルを超える鳥が100羽ほど、肉を奪い合いながら暴れ回っている。
転生への強い思いを感じたとき、究極の「得」の意味を理解した。そして──美しいと感じた。
2007.2.8(69日目)
文殊の知恵
10時起床。今日はお坊さんたちの集会があるということで、ラルンガルの中心に位置するお寺へ向かった。入ると数百人の僧侶が高僧の話を聞いている。建物の横では直径5メートルほどの鍋でお茶とお粥が煮られており、僧侶たちに配給されていた。
建物の中では、卒業式のように一人ずつ名前が呼ばれ、高僧から何かを受け取る儀式が行われていた。これだけの僧侶が一堂に会する光景は圧巻だが、よく見ると、サングラスでチョイ悪を演じていたり、携帯でメールを打っていたり、MP3プレイヤーで音楽を聴いていたりする。その落差がおかしくて、しばらく観察を楽しんだ。
その後、尼寺の周りで写真を撮りながら過ごす。帰り道、僧侶の家に誘われて仏壇での読経タイムをご一緒させてもらった。密教道具を駆使した1時間ほどの念仏。超低音の響きに引き込まれていくうちに、邪念が取り払われたような感覚になった。感謝の気持ちいっぱいで帰途についた。
2007.2.9(70日目)
ラルンガル6日目
普段より少し暖かく、ひとり早めに目が覚めた。どうやら雪が降っているようだ。雪のラルンガルを写真に収めようと、まだ暗い8時ごろから行動開始。少しめんどくさくてダウンジャケットで出かけてしまったら、お坊さんたちの視線が急に鋭くなった気がした。
高台の寺院に上がると、遊牧民風の集団がいた。そこへ尼さんがやってきてはヤクの糞を大事に持ち帰っていく。良い燃料になるのだそうだ。何ひとつ無駄のない生活。
馬にまたがったヤク追いが、とても綺麗なチュバを着ていたので頼んで写真を撮らせてもらった。口から出す音と投げる石だけで、30頭あまりのヤクをひとりで大移動させていく。
しかし、変装していない今日に限って当局の車が2台上がってきた。必死に崖を滑り降りてその場を離れた。
標高4050メートル、毎日の食事は麺類かツァンパ、炒め物。コンセントはあるが電気は来ていない。暖房のない中、気温はマイナス20度近い。風呂もない。今日の逃走で急激にエネルギーが削がれてしまった。文明シックが急に押し寄せてきた。──明日、この町を去ることにしよう。
2007.2.10(71日目)
セルタ → マルカム
朝9時、今日まで寝る場所を提供してくれたツァヌンナンギャ君(ガースナゴンの兄)と固い握手を交わし、ラルンガルを去った。
6日間という当初の予定より短い滞在だったが、悔やみはまったくない。ラサでは見ることができなかった「リアルなチベット」を見ることができた。お坊さんや尼さんに囲まれた乗り合いバスを乗り継ぎ、ラルンガル→セルタ→マルカムと向かう。久々に近代的なホテルに泊まり、一週間ぶりのシャワーを浴びると、本当に真っ黒な汚れが出てきた。
2007.2.11(72日目)
シムズゲストハウス
朝7時、マルカムから成都行きのバスに乗り込む。チベタン色が徐々に消えて、文明に近づいていくにつれ、少し寂しい気持ちになる。
しかし、Sim's Cozyゲストハウスに着くなり、従業員から「ただいま!」と声をかけてもらい、寂しさが吹き飛んだ。ゲストハウス内のバーで働くチベタンの女の子に報告すると、ラルンガルにあっけなく入れたことと、天葬の写真を撮ってきたことに相当驚いている様子だった。
旅はまだ続く。